2011年10月29日土曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その8)

結局、玉龍雪山は見る事ができずに、麓のレストランでヤクの肉などを入れたしゃぶしゃぶ風の鍋料理を食べ、昼すぎにLijiangの中心部にある宿に戻った。午後は自由行動である。Keitaが声をかけてくれたので、私は、KeitaNikkiConnieに付いて旧市街を散策する事にした。こういう所は、Keitaは仲々義理堅い。Yoshiakiは、宿で休んでいるとの事。
宿の前の大通りを渡ると、そこはLijiangの古い街並みを残した旧市街区域である。緩く曲った石畳の狭い道に沿って、黒い瓦屋根で間口二三間ほどの店が建ち並ぶ。道は縦横に走り、古い店並みは続く。1km四方を越す区域が丸ごと昔の街なのである。そこに、道いっぱいにあふれる様に観光客がひしめき合っている。時代劇のセットに入り込んだ様な、妙な感覚である。観光客は8割方が中国人で、以外に若者が多い。海外からの観光客もチラホラ見られる。店は、殆どが観光客相手だが、いわゆるお土産屋は少ない。殆どが専門店で、しかも、結構若者向けが多い。Lijiang周辺は、元々、織物で有名なのだそうで、スカーフや着物の店が特に目立つ。それ以外にも、牛の角などを加工した櫛やブローチなどのアクセサリーショップ、独特の色使いでカラフルな靴屋、カバンの専門店など、若い女性が喜びそうな店が建ち並ぶ。実は、日本でいえば、軽井沢の様な、若者のファッションの流行発信地なのだそうである。案の定、NikkiConnieの眼の色が変わって来た。
Nikkiは、先ず黒いつば広の帽子を買った。彼女の黒のジャケット、パンツによく似合う。実に決まっている。上手く値切って安く買った様で、上機嫌だ。次は、自分用とお土産用のスカーフだが、店をはしごして見て歩く。1件に510分、仲々決めずにはしごして歩く。迷って決めかねているという風でもない。恐らく、種類と価格を確認し、どの種類のスカーフをいくらで買うのが妥当かを絞り込んでいるのでは、と想像する。5軒以上は回っただろうか、多分、気に入った種類とその相場が確定したのだろう。ぼちぼち買い始めた。しかし、1軒でまとめ買いはしない。更に、45軒を回って、やっと買い物を終えた。
一方、Connieは、Nikkiほどはファッション一辺倒ではない。彼女は先ず、本体にひょうたんが付いた縦笛を買った。店でイロイロ試して、一番音色の良い物を選ぶ。小中学校の頃の思い出の品らしい。また、多分家族へのお土産用に、佃煮の様な物を買う。スカーフなどにも興味がある様ではあるが、Nikkiの様に執拗なこだわりはない。大人の落ち着きを感じる。時々、私やKeitaの事を気にかけてくれ、地元特産の食べ物などを買って勧めてくれたりもする。
Keitaは、店の外で手持ち無沙汰にNikkiConniewindow shoppingが終わるのを待つ。文句も言わず、辛抱強く待つ。感情をあまり表に出さない事と、辛抱強さがKeitaの持ち味だ。結局、Shopping は日暮れ近くまで続き、私は、Nikki, Connie, Keita"生態"観察で時間を潰した。(つづく)(多田)

2011年10月26日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その7)

揚子江上流域での採水を終え、Lijiang1日の余裕が出来た。それ迄の日程が強行軍だったので、「1日ゆっくり休みたい」と言うのが本音だった。Keitaはばて気味、頑強な筈のYoshiakiも、流石に始めての海外調査で気疲れしたのか、休みたい様子。しかし、Zheng教授はサービス精神旺盛で、Lijiangの北にある、世界遺産にもなっている玉龍雪山に雪を見に行こうとの事。ConnieNikkiは元気そのもの、行く気満々で、疲れたからゆっくりしたいなどとは言い出せない雰囲気だった。
休養日当日の朝、外は雨がしとしと降り、山は雲に隠れて見えない。雪を見に行くのは中止か、との淡い期待も、山の上は晴れているかもしれないから予定通り行こうとの一言で露と消え、早朝からの出発となった。麓までは車で行ったが、個人の車が入れるのはそこまでで、後は公園内を循環するバスとロープウェイを乗り継いで、標高4500mのロープウェイの終点まで行くとの事。標高3000m足らずの麓でも肌寒いので、展望台のある4640m地点は凍りつくほど寒かろうと、一人80元を払ってダウンコートを借りてくれた。Zheng教授や、Connie, Nikkiは完全に遠足気分で、ロープウェイの順番を待つ間に饅頭や焼きトウモロコシを買って勧めてくれる。ところが、実はYoshiakiと私は、連日のハードスケジュールと辛くて脂っこい四川料理(調査地域は雲南省なのだが、Zheng教授は、中華の中で四川料理が一番美味しいと言う信念を持っており、四川料理のレストランを選ぶ事が多い)の毎日で、お腹の調子がイマイチだったので、食べたかったが、焼きトウモロコシは遠慮した。
ロープウェイの終点に着くと、確かに雨は止んでいたが、雲に隠れて玉龍雪山は見えない。それでも一番上の展望台まで行こうと、若者達は元気いっぱいなのだが、どうした事かZheng教授の元気が無い。「私は、ロープウェイの終点あたりで写真を撮っているから、若者達は、展望台まで行って来なさい。」との事。恐らく、軽い高山病なのだろう。いつもは大丈夫でも、ちょっとした体調の変化で具合が悪くなる事もある。私は、トイレに行ったら、すっきりして絶好調となり、学生達と一番上の展望台を目指した。
ひたすら階段を登るのだが、空気が薄いのですぐ息切れがする。学生達も休み休みだ。休み休みの分、会話は弾む。ふだんは無口のKeitaYoshiakiNikkiConnieと会話を楽しんでいる。記念写真を撮るのが好きな中国の若者気質も、うちとける雰囲気作りに役立っているようだ。私は、日頃のジョギングの成果で、余り息切れもせず、余裕たっぷりで学生達の生態観察を楽しんだ。途中で霧が濃くなり、雪で覆われている筈の頂上はおろか、100m先も見えなくなったが、見晴らしの悪さも、今や彼らには盛り上がる為のネタとなっていた。学生達をリラックスさせ、打ち融けさせると言うZheng教授のもくろみは、見事に成功したと言えよう。苦労して登ったのに結局何も見えなかった事が、逆に忘れられない思い出になるのかもしれない。(つづく)(多田)

2011年10月21日金曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その6)

先にLijiangShangri-laなどの都市が、実は、山間盆地にある、と言う話をしたが、これらの都市に限らず、大屈曲の東方には、標高4000mを越す山々の間の谷を埋める形で、さし渡し数kmから時には数十kmに及ぶ平野が標高3000mを超える高度に多数広がっている。揚子江から4000m級の山々を超えたところに、突然、真っ平らの平野が広がるのである。それはまさしく天空の街であり、特に古都Lijiangは幻想的である。
こうした平野は、殆ど例外なく構造湖(断層運動などで出来た湖)が埋め立てられたものである。この地域には、インド亜大陸のユーラシア大陸への衝突に伴って形成されたと考えられる南北走向の断層が狭い間隔で何本も走っており、それに沿ってV字谷が刻まれている。恐らく、応力場の変化に伴って、横ずれ断層が逆断層に転じ、せき止め湖が形成されたのだろう。この様な、せき止め湖を埋積して形成された平野は、特にDali(大理)からShangri-la(香挌里拉)にかけて多く見られ、その多くは、埋積後に余り侵食を受けていない事から、埋積後、せいぜい数十万年しか経っていないものと思われる。一方、その埋積の開始は、少なくとも中新世後期(5001000万年前)までは遡れる様である。
南中国や東南アジア地域は、ヒマラヤーチベットの隆起に伴う構造運動やモンスーン降水の影響を強く受ける為に、世界で一番侵食、削剥が激しい地域と言われる。従って、これらの地域について、どの位の速度で侵食が進んでいるのか、侵食速度はどう言った要因(特に隆起速度、起伏度、基盤の地質、雨量、植生など)に制御されているのかを知る事は、風化侵食作用を理解する上で、更には、化学風化作用による大気中二酸化炭素の消費過程に、ヒマラヤチベットの隆起やそれに伴うアジアモンスーンの強化がどの程度影響しているかを評価する上でも重要である。その為に、揚子江やメコン河、サルウィーン河の上流域では、近年、風化侵食作用とその制御要因に関する研究が盛んに行われている。そうした研究の多くは、集水域や地形の起伏度を計算するのにGISを使っているが、どうも集砕屑物域(適切な用語が存在しないのでこう書くが、砕屑物粒子を集めて川に供給する領域の事)を計算する際に、上述の埋積湖地形を考えていない様である。
 どう言う事かと言うと、埋積湖を含め、湖はそれより上流の集水域に降った雨は下流に流すが、堆積物は殆どトラップしてしまうのである。湖の場合はその事は明白だが、埋積湖の場合は既に湖は消失してしまっている為、その事は見逃され勝ちとなる。しかし、埋積湖が作る平野に流れ込む比較的小さな川は流入口で扇状地を形成し、また、流入した水の大部分は地下水となり、更に、平野を横切る川は蛇行していて、堆積物の大部分をそこに落としてゆくのである。つまり、降水に関しては、埋積湖やその上流の集水域は、その下流にある揚子江本流の集水域として扱うべきであるが、砕屑粒子に関しては、埋積湖やの上流で侵食され運搬されて来た砕屑物の殆どは埋積湖でトラップされてしまうので、埋積湖より上流の集砕屑物域は、揚子江本流の集砕屑物域からは除外するべきなのである。
上に述べたように、最近、揚子江上流域において、10Beを用いて侵食速度を推定し、それと地形起伏度や雨量、気温、植生などとの関係をしらべて、侵食速度の制御要因を論じた論文が専門誌に出版された。アイデアは良いのだが、結果は今ひとつで、期待された要因との間での相関が低く、明確な結論を得るには至っていなかった。この論文を、以前、Yoshiakiに読ませたら、興味を示していた事を思い出した。Yoshiakiは、卒論のテーマを絞り込むために今回の調査に参加していたが、卒論では、GISを活用した研究を行う事が希望だった。そこで、「GISを用いて埋積湖とその集水域を抽出して、侵食された砕屑物の流出量推定や起伏度評価の際にその影響を考慮して、10Beを使って侵食速度と雨量(河川流出量)や起伏度との関係を議論した先行研究の議論を再評価する」と言うテーマはどうかと水を向けた所、気に入った様子。良い結果が出るかどうか充分な勝算があるわけでは無いが、自分の眼で見た事から何かを感じ取り、そこから様々な疑問やそれを解くためのアイデアを発想するという、自然科学の原点から卒論研究を出発させる事が出来た様に思う。先ずは、良かったよかった。(つづく)(多田)

2011年10月20日木曜日

ペルム紀末大量絶滅期の地層調査(岩手県)

私たちの研究グループが取り組む研究課題のひとつとして、地球史の中で幾度か起きた大量絶滅時代の研究があります。
中でも、近年注目しているのが、今から約2億5千万年前の古生代末に起きたペルム紀末の大量絶滅事変です。この事件では、生物の9割が死滅したとも言われ、文字通り史上最大の大量絶滅です。
この史上最大の大量絶滅事件は、どのようにして起こったのでしょうか?その謎を解く鍵、この時代の海洋の記録を残した地層が日本に残されています。
日本に残る深海地層は、当時の外洋の環境記録を知る手がかりとして重要なのですが、これまでなかなか連続的に保存された地層得られず、不明な点が多くありました。

2011年、10月8日から12日の5日間、私たちは、岩手県北部にみられるこの大量絶滅時の深海底で堆積した地層を調査し、堆積物試料を採取してきました。
参加したのは、多田教授、山本さん、高橋、池田さん、尾崎さんの5名です。


今回の調査の目的は、後期ペルム紀から前期三畳紀にかけての堆積物を完全連続で採取することです。エンジンカッターを使った連続サンプル採取は、今回調査に加わってくださった山本さんがエキスパートです。

 今回は、露頭斜面が急なので、露頭に土台を築き、サンプル採取の足場を作りました。
















土台を作ったら、エンジンカッターで露頭を切断します。切れ込みを入れた部分を地層が連続するように採取していきます。










切断面を作ることによって、露頭を眺めるだけでは分からない細かな堆積構造が見えてきました。これが、大量絶滅期前後の記録なのです。(写真は大量絶滅後の時代に相当)
















今回は、全体で3mの厚さに相当するサンプルを得ることができました。

この堆積物が示す太古の記録を読み解くため、これからサンプルの分析が始まります。
結果が非常に楽しみです。

また、野外調査・試料採取の活動は来年以降も継続予定です。

(高橋)

2011年10月19日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その5)

Panzhihua周辺の調査が終わると、Lijiang, Shangri-laへと移動して、揚子江大屈曲(first bendと呼ばれる)より上流域での採水と河川堆積物採取を行った。大屈曲より上流になると、河道は直線的になって河原は余り発達しなくなり、いわゆるV字谷の地形となる。その為、川沿いには大きな町は存在せず、人口百人に満たない小さな集落が点在するのみである。河床の標高は2000mを超えるが、周辺の山々の標高は4000m以上ある為、谷の深さは2000m前後ある事となる。一方、Lijiang, Shangri-laと言った町は山間の盆地にあり、揚子江とは4000m級の山々で隔てられている。その為、揚子江上流に行くには、山を超えてV字谷の斜面を下る、細くて曲がりくねった道を延々と行かなくてはならない。道は一応舗装されているが、小型車がかろうじて行き違える幅しかない所が多く、大型トラックが来ると道の所々にある退避スペースで待たねばならない。また、急な斜面を切り込んで作ってあるので、しょっちゅう崩れるようで、あちらこちらで修復工事を行っている。我々が行った時も、Shangri-laを出てすぐの所で修復工事を行なっていて、ぬかるんで深い輪だちが刻まれた片側車線を使っての交互通行を行なっていた。
中国では、特に地方に行くと、信号を厳密に守るとか、整然と並んで順番を待つとか、道を譲り合うと言った習慣はあまり無いようである。対向車が通り抜け終わる前でも、空きが出来れば反対側で待っていた車が片側通行の車線に入ってゆくし、信号が赤に変わっても前の車について強引に入ってゆく事がしばしばである。この時も我々の車の前を行くツアー客を乗せたワンボックスワゴンが、前の車について片側通行車線に強引に入って行った。一方、反対側で待っていた大型トラックは、ワゴンが完全に抜け切る前に、片側通行車線に入ろうとして、ワゴンと接触したらしいのである。
ほんの子擦り傷程度だが、トラックがぶつけた形となり、運転手同士の口論が始まった。片側車線をふさいだまま、ツアー客を乗せたままでの口論である。どうも、ワゴンの運転手がトラックの運転手に修理代を請求しているらしい。口論は1時間近くも続いた。その間に通行を待つ車の列は伸び続け、示談が成立してワゴン車が道を開けた頃には、片側で100台を超えていた。この道は、東チベットへと続く唯一の幹線道路である為に、物資を積んだ大型トラックの往き来がかなり多いのである。
運転手二人の口論の際には、野次馬が二人を取り囲み、怒号が飛び交ったが、2人はお構いなしで続けていた。野次馬も半分は口論を楽しんでいるようで、本気で怒っている様子ではなかった。その辺りも、恐らくは阿吽の呼吸があるのだろう。あとで聞いた話では、ワゴンの運転手が、トラックの運転手に、最初2万元(30万円)を要求したらしい。法外な要求である。それが1時間かけて500(7500円程度)にまで下げられて示談成立となったとのこと。フッかける率も40倍とは、さすが中国だ。結局、反対側で並んでいた100台あまりの車が全て通り抜け、我々の車が片側通行を通り抜けたのは、口論開始から1時間半余り経った後だった。
こうした事は、中国の田舎を車で旅する時には、よく起こる事で、驚くには当たらない。怒号を飛ばしていた野次馬達も、半ば口論を楽しんでいたのである。しかし、我々には、この1.5時間のロスは大きかった。この日は、採水の後、Shangri-la見物をして、Lijiangまで戻る予定だったからである。結局、Shangri-laの街を見学することなく、Lijiangまでの長いドライブとなった。(つづく)
(多田)

2011年10月18日火曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その4)

 先にも述べた様に、採水を1日に2地点以上やると夜の濾過作業が追いつかない。そこで、調査2日目と3日目は午前中に採水を行い、午後はPanzhihua周辺地域の高位段丘の調査を行った。東大グループ側は、当初、段丘調査を想定していなかったので、どこに行くかはZheng教授にお任せである。Zheng教授は、野生的感で野外調査を行うタイプの人で、細かな計画は立てないし、状況に応じて予定をどんどん変更する。だから、彼と一緒の調査の時は、調査の目的と計画の大筋だけを決めてあとは彼を信じて任せるだけである。また、彼の意図を素早く理解してこちら側の希望を早めに伝え、予定に組み込んでもらう必要もある。今回も、計画の大筋が決まったのが出発の2週間前で、その時には、段丘調査の話はなかった。
 この地域に新第三紀(2502300万年前)の湖成堆積物がある事は、中国ではよく知られているらしく、その成因が紅河と揚子江間での河川争奪と関係する可能性を指摘した論文が最近出たようである。Zheng教授は、どちらかと言うとそれに否定的な意見を持っている様であったが、兎に角、その考えの妥当性をチェックしたいと言う思いがあって、段丘調査が急遽予定に加わったのでは無いかと推測する。
 高位段丘は、現在の河床から200m以上高い所にあり、地層の固結度も高いことから、第三紀の堆積物と思って良いだろう。また、砂勝ちの砂泥互層で特徴付けられる点も、低位段丘をなす第四紀(?)の湖成堆積物とは異なる。その分布も、当初(Zheng教授が)予想したよりはるかに広く、さし渡しで数百km以上に及ぶ。Zheng教授の目の色も徐々に変わり始めた様だった。実際、Panzhihua東方の揚子江支流沿いの露頭では、現在の河床より約100m高い位置に湖堆積物の基底が露出する。そこでは、花崗岩質の基盤の上に赤茶色の土壌が発達し、それを緩い斜交不整合で覆って湖堆積物が重なる。平坦な土壌面が形成された後、湖が出来て水没するまでの間に、若干の傾動があった事を示唆している。一方、近隣の高位段丘面は湖堆積物の上限を表し、両者の高度差は約250mある事から、湖を埋積した堆積物の厚さは250m以上あると推定される。巨大な湖があった可能性が出て来たのである。
この様に大きな湖は、がけ崩れなどによるせき止め湖とは考えにくい。構造運動に伴って出来た湖ではないだろうか?土壌を低角で切って発達する傾斜不整合の存在もその可能性を示唆する。例えば、現在の紅河流域と揚子江流域の間に出来た分水嶺の隆起に伴って、揚子江の上流域に一時的に湖が形成され、やがてその東縁が決壊して、現在の揚子江へとつながったと考えることはできないだろうか。湖堆積物の基底部に見られる傾斜不整合や、堆積物最下部にスランプ堆積物がみられ、それが傾斜不整合と同じく、写真の左側に向かって層を厚くして行く傾向が見られることも、湖の堆積が構造運動と関係していた事を示唆する。以前から言われているように、元々は、紅河へと流れていた揚子江上流域が現在の揚子江上流域に争奪されるまでの転換期に、一時的に湖が形成されたのかもしれないのである。(つづく)
(多田)

2011年10月12日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その3)

 揚子江プロジェクトでは、10g近い懸濁物を採取して東大と南京大のグループ間で分配し、同一試料について化学組成、鉱物組成、粒度、有機物など、多様な分析を行う予定である。10gの懸濁物の採取と簡単に言うが、それは、実は常識外れな量なのである。それだけの懸濁物を回収する為に、南京大グループは、1地点で100リットル以上もの水を採取するのである。水を満たした25リットルポリタンクを持って、何十段もの階段を上がらねばならない。南京大の女子学生に25kgもあるタンクを持たせる訳にもいかないし、私は腰を痛めているので、10kgの小型タンクを持つのがやっとである。一方、Zheng教授は、50歳の働き盛りで、体格も良いので、25リットルタンクを2つ運ぶ。残りの2つをKeitaYoshiakiが運ぶのである。Keitaは、背は高いが力はそれほどないので、休み休み運び上げる。Yoshiakiは、岩場登りが趣味と言うだけあり、一気に運び上げる。こうして2地点採水すると、車はタンクで一杯となる。その日の採水作業は終了である。
今回の調査では、合計7地点で採水を行い、前回は、10地点以上で採水を行った。それだけの水を運びながら調査を続けるには、中型トラックが必要になる。それは、余り現実的でないので、南京大グループは、吸引ポンプ2台と大型フラスコ4つをホテルの自分達の部屋に持ち込んで、その日のうちに濾過を行う。一晩で200リットルを濾過しなければならないので、作業は夜中の1時をすぎる事もしばしばである。終わるまではシャワーも浴びられないが、二人は率先して熱心に働く。

中国は今、高度経済成長の真っ只中で、下克上の時代である。人一倍働いて結果を出せば、更なるチャンスが得られる。出身地や性別は、それほど関係しない。また、インターネットや携帯の発達で、情報統制が余り効かなくなっているので、特に大学に通う若者達は、海外の情報をかなり良く把握しており、考え方もリベラルである。日本の1960年代を見ているような錯覚に、時々陥る。
また話が脱線したが、南京大グループは、機械とウーマンパワーで、常識を打ち破る量の懸濁物試料を現地で集めるのである。ただし、彼女らは、オイルの飛散を防ぐ機能を持っているとはいえ、オイルポンプを使って強烈に吸引している為、オイルによるコンタミ(試料に微量のオイルが混入して汚染される事)は、まぬがれ得ない。そこで、我々、東大グループは、日本から電動アスピレータを持ち込み、12リットルの河川水試料を濾過する事で、有機物分析用の懸濁物採取する作業を分担した。アスピレータは、水流により陰圧を作り出すので、コンタミの心配は無いが、吸引力は、オイルポンプの数分の一程度である。将来の中国と日本産業の棲み分けの姿を見ているようでもあった。Keitaは、慎重で丁寧だが仕事は遅い。東大グループの作業も、零時を周る事がしばしばだった。(つづく)
(多田)

2011年10月8日土曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その2)

調査2日目。いよいよ本格調査の始まりである。二日目は、Jinshajiang(金沙江)へのYalongjiang[リュウ]江)合流の影響を見る為、合流点から数km下流の揚子江本流と合流点から数百m上流のYalongjiangで採水を行い、3日目の朝には合流点から数km上流のJinshajiangでの採水を行った。これだけ書くと、河に下りて水を取るだけの仕事で、簡単で楽な作業だと思われるかもしれないが、そうは問屋が卸さない。河へ下りる道を探すのが至難の技なのである。
先ず、道から河辺までの間は私有地である事が多いため、道沿いに柵や塀が張り巡らされている事が多く、地図を見ても河に下りる道はほとんど見当たらない。また、揚子江沿いの道は、通常、河面より30m以上高い所を走っており、道から河までの斜面は、草木が生い茂っている。従って、柵が無い所を見つけても、道や階段が無い限り、斜面を登り下りする事は不可能である。
揚子江調査ではNikkiがナビ役なのだが、彼女は、携帯で衛星地図(Google map)を見ながら、採水を希望する地点付近を拡大し、河辺に船が停泊している所を探す。Google mapでは、長さ10m程度の船まで十分に識別できる。揚子江沿いには、しばしば船が繋留されている場所がある。そうした船の多くは、船上レストランか小規模な水文観測船であり、そこへ下りる道や階段が存在する。それを探し出すのである。こうして河辺へ下りる道(多くの場合は階段)を見つけるが、そこに船が停泊していると、Zheng教授の出番である。言葉巧みに(と言っても中国語で話しているので、何を話しているかは分からないのだが、交渉上手である事はわかる)船べりから採水させてもらえるように交渉するのである。(つづく)
(多田)

2011年10月7日金曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その1)

今年(2011年)の9月中旬に二週間余り、学生二人を連れて、中国雲南省の揚子江上流域(金沙江と呼ばれる)に、調査に行って来た。今年から5年間の計画で始めた南京大学との共同研究のための調査である。揚子江の全支流域から水と河川懸濁物、河床堆積物を採取して、化学的、鉱物学的にそれらの特徴付けを行ない、支流別の砕屑物識別基準を確立して、それを揚子江河口沖合いで掘削予定の堆積物コア(過去6000年間に揚子江から流出した堆積物を連続的に記録する)に応用することにより、揚子江のどの支流域で雨が沢山降って砕屑物が流出したか、大規模な洪水が、どの支流域で、どういう頻度で起こったか、それらが時代と共にどう変動したのか、と言った事を明らかにするのが、その研究の主目的ある。
揚子江集水域は南中国の大部分を占め、現代の梅雨前線は集水域の中部~南部に停滞する。過去において夏季モンスーンの強度が変化して梅雨前線の停滞位置が変われば、揚子江の河口に供給される砕屑物の供給源も変化するだろう、という考えがその背景にある。実は、東アジア夏季モンスーンは、数百から数千年スケールで繰り返すグローバルな気候変動に連動して大きく変化して来たらしいことが明らかになりつつあるが、その様式や、グローバルな気候変動と連動する原因はまだ解明されていない。そこで、それらを世界に先駆けて明らかにしようというのがこの研究の最終目的である。
堅苦しい話はこの位にして、とにかく私は、学生二人を連れて、昆明へと旅立った。昆明の空港には、長年の友人であり、共同研究者でもある南京大のZheng Hongbo教授が迎えに来てくれ、南京大グループとすぐに合流した。今回、南京大からは、NikkiとConnieという博士課程1年の明朗で活動的な女子学生2名が参加した。一方、私のグループは、身長193cmとのっぽで痩せ型、気は優しいが引っ込み思案で慎重なKeita(M1)と、イガグリ頭で、背はやや低くガッチリとした体格、口数は少ないが言うべきことははっきり言う、独断即決型のYoshiaki(B4)である。二人とも無口で愛想がないので、NikkiとConnieは物足りなげであったが、兎に角、翌日、四輪駆動ワゴンと中型ワンボックスの2台で、最初の目的地Panzhihuaに向けて出発した。
今回の調査の主目的は、現在の揚子江における侵食、運搬、堆積過程の理解と各支流起源砕屑物粒子の特徴付けだが、数万年から数百万年前の揚子江がどう流れていたかを解明する事がもう一つの目的である。「実は、数百万年から数千万年前の揚子江の集水域は、現在の三峡より下流のみで、四川盆地より上流は紅河の集水域をなしてベトナムに流れていた。それが、東チベットの隆起に伴って、揚子江が次第にその集水域を西に広げ、紅河の集水域を奪っていった(河川争奪と呼ばれる)。」という仮説が、以前から複数の研究者により提唱されて来た。しかし、その根拠は必ずしも明確でなく、いつ、どこで、どの様にして河川争奪が起こったのかに関しても定説はない。そこで、調査の道すがら、揚子江やその支流沿いに見られる古い(時代は未詳である)河川堆積物や湖成堆積物についても、それらを観察、記載して、試料を採取した。
調査の初日は採水はせず、ウォーミングアップも兼ねて、Panzhihuaに行く道すがら、河床から50~60mの高さの段丘をなす古い堆積物を観察した(写真)。堆積物は主に泥岩からなり、平行葉理(地層面のmmスケールでの繰り返し。地層に垂直な断面で見ると、平行な縞模様に見える)が見られた。砂岩層は、細粒でごく薄いものを時々挟むのみである。これらは、湖堆積物の特徴であり、過去の一時期にPanzhihuaの周辺に湖が広がっていたことを示唆する。堆積物の固結度が余り高くない事、Panzhihua東部、揚子江上流から数えて一番目の支流であるYalongjiangとの合流点付近の河べり(河面から1m程度の位置)に同様の堆積物が露出している事から、それほど遠い過去のものでないでない(恐らく第四紀: およそ260万年前以降)と思われる。しかし一方で、調査初日に見た露頭では、地層は南北性の断層によって切られ、東に30度前後傾いていた事から、速めの傾動速度を考えても、~10万年よりは古いと思われる。厳密な測量は行っていないし、断層などに伴う地殻運動も評価出来ていないので、正確な事は言えないが、湖堆積物の厚さが100mを超える事は無いだろう。それほど規模の大きな湖ではなく、取りあえず第四紀における堰き止め湖の堆積物ではないかと考える事とした。(つづく) (多田)

2011年10月1日土曜日

野外実習

私たちの研究グループの活動の特色のひとつは、野外調査を行い、調査・分析対象を直接観察することです。

今週は、多田教授が指導する学部生向けの実習、野外調査実習Ⅰが千葉県清澄山周辺で実施されました。


この実習には高橋も参加したほか、修士院生の烏田君・斎藤君もティーチングアシスタントとして参加しました(下写真)。

・・・お疲れのようですね・・。実習中は二人とも学部生を牽引するのに大活躍だったんです。

4泊5日で実施された実習中、日中は、沢を歩いて、ルートマップや柱状図を作成し、

夜は、フィールドノートの墨入れや作図、調査データに関するまとめと議論が行われました。

学生のみなさんは非常にまじめに取り組んでいました。感心、感心。

実習の最終日には、10月からの環境学実習に使うサンプルを採集しました。

サンプルからどんなデータが得られるか、楽しみですね。


余談ですが、実習中はいろいろな野生生物に出会いました。その中で私たちを悩ませたのは蛭です。足下に沢山付いてくるんですよね。私を含め何人かが刺されてしまいました‥。足首の周りをテープで巻いておくなど、きちんと対策をすると良いようです。

(高橋)