2011年12月30日金曜日

大掃除→忘年会

昨日は、メンバー総出での実験室の大掃除を行いました。

1号館の実験室からものを運び出し、

新しく準備する3号館の実験室へ機器を運びました。大机や冷蔵庫など重いものを運ぶのには力持ちの男性陣が大活躍です。





29日は食堂は開いていません、年末ですからね。
お昼ご飯は出前をとってみんなでうな重を食べました。おいしかったですね。




午後の作業は、1号館実験室の模様替えと整理です。

うなぎパワー!?で、大分実験室が片付きました。年明けには新しい分析機器が入る予定です。
リニューアルした実験室でこれからどんな成果や発見がうまれるか、とても楽しみですね。


夕方からは、研究室OB・OGの方々にも参加頂き、近くのイタリアンレストランで忘年会を行いました。

今年一年の近況や、先輩方の思い出話、研究・分析のコツについてなど、話が盛り上がり、楽しい時間を過ごしました。


今年1年、多田研のメンバーで様々な経験をし、それぞれ成長したことと思います。

来年も、みんなでにぎやかに研究生活を送っていきましょう。

みなさん、よいお年を!

<Takahashi>

2011年12月27日火曜日

石磨きはさんざんくろうする。

はやいもので、あっという間に年末です。

みなさん、やり残したことはありませんか?

高橋が残しているもののひとつ、それは今年の調査で採取したサンプルの処理です。

写真は、秋に岩手県で採取したペルム紀/三畳紀境界層の試料を加工していているところです。達人山本さんにご指導頂いています。



決してクリスマスケーキをつくっているところではありません。生クリームじゃありませんよ、補強用の石膏です。

前回このブログで紹介したときには、露頭の切断面でも堆積構造が観察できましたが、

現在取り組んでいる作業を通して、岩石試料を一定の大きさに揃えて磨くことで、
より地層断面が観察しやすくなります。


















大量絶滅期の深海底の地層記録復元まであとちょっとです。



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2011年12月23日金曜日

オープンキャンパス

本日はオープンキャンパスでした.

東京大学のオープンキャンパスは毎年夏に行われる予定のものですが, 今年の夏は節電をする必要があったため延期となっていました.

今日は休日にもかかわらず, 院生の皆さんにシステム講座の展示解説に協力してもらいました.

写真は,研究室の烏田君が高校生に惑星について語っている様子です.熱心に聞いていますね.


忙しい中,協力してくれた田近研の野津さん,モテモテですね.地球史のコーナーにて.



地惑専攻の展示ブース+講演会でのべ700人以上の来場者があったそうです.

沢山の来場者の方々とお話ししましたが, 実際に入学・進学を検討している方々も多くいました.

次回, 大学で再開できることを楽しみにしています.
<Takahashi>

2011年11月27日日曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その12)

今回の調査の旅もいよいよ終わりに近づいてきた。ベトナムとの国境の町「河口」の手前で採水と堆積物試料を採取すれば予定は終了だ。私達は、紅河沿いの町、南沙で一泊したあと、川沿いの舗装道路を、一路「河口」へと向かった。その途中、河の流れが徐々に淀み、河の色が紅から黄褐色を経て深い緑色に変わり、やがて完成間近のダムに出会った事については、既に私個人のブログに書いた通りである。複数の国にまたがって流れる河川にダムを建設する事の問題はここでは述べないが、我々が、高速を降りて紅河沿いに下ってきた舗装道路とその切り割露頭は、どうもダム建設のために、ごく最近、作られたものの様だった。河床からかなり高い位置に道路が作られ、切り割露頭が出来たことによって初めて、大規模な河川堆積物の存在が明らかになったのではないか、と思われる。Zheng教授は、なるべく速やかにこの河川堆積物の調査をすべきと考えているようである。河口の町に着いてそこで1夜を過ごし、昆明へと戻る道々、Zheng教授は、興奮冷めやらぬ様子で、今回の発見の重要性と一刻も早い調査の必要性を熱弁した。
その後のメールでのやり取りの結果、当初12月に予定していた、揚子江下流域の採水、河川堆積物採取の調査を延期して、急遽紅河沿いの河川堆積物の調査を行う事になった。123日から、私とYoshiakiが参加する予定である。(終り)(多田)

2011年11月22日火曜日

犬山調査日記。

高橋です。ご報告遅くなりましたが、11月12−14日の日程で、愛知県と岐阜県の県境を流れる木曽川流域の地質調査を行ってきました。

メンバーは、私と東北大学の鈴木紀毅先生の研究室と広島大学の高橋嘉夫先生と中田亮一さんです。
file://localhost/Users/saccy-t/Dropbox/犬山2011Nov/写真/集合.jpg
木曽川は、美濃帯に属する三畳紀からジュラ紀の深海底で堆積した地層が保存よく残るところとして世界的に有名です。

1日目は、私も研究論文を発表した桃太郎神社近くに位置する前期三畳紀の地層を見学しました。
2日目は、卒論から修士までこの地域の中期三畳紀から中期三畳紀の研究に取り組んできた鈴木研小川君に地質の案内とこれまでの調査成果を紹介してもらいました。詳しく、しっかり研究していてこれで就職してしまうには惜しいくらいです。file://localhost/Users/saccy-t/Dropbox/犬山2011Nov/写真/調査1.jpg

3日目は、河川の水位が引いているときしかなかなか見ることのできない栗栖地域の露頭を歩いて回りました。実は、9月の台風の接近で延期になっていた今回の調査、不幸中の幸いか露頭が洗われていて非常に見やすかったです。

調査中や宿で、調査メンバーのそれぞれの研究・専門性を発揮して議論や交流ができたことも非常に有意義な機会となりました。

初めての野外調査に挑戦した学部生の方には、「いっつも、研究の話ばっかりして・・」と気持ち悪がられましたが・・・  もう少し研究を続けると、いづれ彼女もこっちの仲間入りになりそうな予感がします。

2011年11月13日日曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その11)

雲南省南部を流れる紅河は、標高10002000m前後の比較的緩やかな山々の間を流れるが、河道は直線的で川幅も比較的狭い。V字谷的で、河原もあまり発達せず、どちらかと言えば、侵食場になっている。しかし、その両側の斜面の比較的高い所(恐らく河床から~50mを越える高さ)まで、礫岩を中心とした河川堆積物が、かなり連続的に分布している。礫岩は角礫~亜角礫を主体とし、淘汰が悪く、連続性の悪い泥質砂岩層を時々挟在して居る。河は断層沿いを流れている事から、河道は断層に規定され、断層活動に伴って侵食が進んでいったのではないかと想像される。礫種は多様だが、現在の紅河の河原の礫とは、組成が異なる様である。また、量的には少ないが、角礫の中に非常に良く円磨された花崗岩などの礫が含まれ、その礫種は、現在の紅河には見られないものの様である。
もし、これらの観察が正しければ、紅河は、地質学的過去(恐らくは、レッドリバー断層が活動した3500万年前以降)には、現在よりかなり大きな集水域を持って、流れていたのではないだろうか?Zheng博士も、間違いなくそう思って居るだろう。もしそうなら、我々は、初めて紅河がその過去において河川争奪を受けた直接的証拠を手にした事になる。この事を証明するにはどうしたら良いだろうか?先ずは、現在の紅河の堆積物と河岸斜面の比較的高い所に露出している古い時代の河川堆積物の供給源が異なり、古い堆積物の一部が揚子江上流域から運ばれた物である事を示す事である。それには、両者の礫種を比較して、古い河川堆積物に含まれていて、現在の堆積物には含まれていない礫種を特定し、それが現在の紅河集水域には分布せず、揚子江上流域に分布する物である事を証明すれば良い。石英のESR信号強度と結晶化度を用いて砂の供給源とその時代変化を調べる事も有効だろう。私たちの研究室は、この手法を砂やシルト粒子の供給源推定に適用して、成功を収めている世界で唯一の研究室である。
では、もし、古い河川堆積物の一部が揚子江上流域から供給された事が示せたら、次に何をすれば良いだろうか?次には、その供給が止まった時期(河川争奪が起こった時期)を特定する事が重要だろう。実は、恐らく、これが一番難しい。一般に、河川堆積物には、その年代を推定する手掛かりが余り無い。特に大陸の河川堆積物の場合、火山灰や溶岩流を挟在する事は稀なので、放射性元素を利用した年代測定はできない事が多い。また、海洋堆積物と違って、化石の種類の変化を利用した年代推定(化石層序と呼ばれる)も困難な場合が多い。それゆえ、陸成堆積物においては、多くの場合、地球の磁場の逆転の時代変化パターンの比較に基づく地層年代の推定法(古地磁気層序と呼ばれる)が最も有効な方法である。しかし、それを用いるには、長い期間連続的に堆積した地層を見つけ出す必要がある。そして、それには緻密な地質調査を行う必要がある。
もし、うまく堆積物の時代(特にその上限)が決まったとして、もう一つやるべき重要な事がある。元々、揚子江上流域と何処で繋がっていたのか、それがどの様にして切れたのか、(そして、揚子江下流といつ、どの様にしてつながったのか、)を明らかにすることである。私は、ベトナムとの国境の町、河口に移動中の車内で、iPadを使って衛星写真で紅河の上流域をたどった。元磨高速と紅河との交差点からすこし上流に上がった所で、北東から流入する大きな支流がある。その支流は、支流にしては幅広い河道をもって北東に伸び、昆明の西数十kmまで達している。そして、低い丘を越えると、その向こうは、揚子江の支流で、それは、50kmも経たずに揚子江の3つ目の大屈曲へと注ぐのである。そして、そこには、第三紀のものと思われる湖成堆積物が、現在の河床から300m以上の高さにまで堆積しているのである。
私の頭の中に、一つの仮説が浮かんだ。揚子江の中~上流は、この支流を通じて紅河に流れていたが、第三紀のある時期に、昆明の西で隆起が起こり、揚子江の中~上流域が切り離されたのではないだろうか。そして、揚子江の下流に繋がる河道が新たに切られるまで、一時的に湖が形成されたのではないだろうか?その4で述べた様に、湖成層の基底部に傾斜不整合が見られ、更には、湖堆積物の最下部にスランプが見られることも、湖の形成が傾動運動の開始と拘わっていた事を示唆している。車の中で妄想はどんどん拡大していった。(つづく)(多田)

2011年11月6日日曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その10)

昆明で一泊したので、ドライバー2人はリフレッシュした筈だ。2人は昆明の自宅に戻れたからだ。翌朝、いつもより少し遅めに出発し、一路紅河へと向った。高速が紅河を横切る橋の手前で車を降り、橋の縁の路側帯に沿って橋を渡りながら紅河の写真を撮った。日本では、高速の途中で車を止め、まして人が高速道路に出てその縁を歩く事は、とても認められない法令違反であるが、中国では黙認されるようだ。橋は高さが150m以上あり、橋脚を持つ河としては世界最大(級)の高さを持つのだそうである。おかげで紅河を上から臨む絶景の写真を撮る事が出来た。
Zheng教授は、かなりの写真好きで、良い写真を撮る為なら労を惜しまない。Connie, Nikki, Yoshiakiは私達について車外に出て、写真を撮りつつ橋を徒歩で渡ったが、Keitaは車から出て来ない。多分、もし間違って車にひかれたら、と心配なのだろう。私もどちらかと言えば心配性だが、Keitaは私に輪を掛けた心配性の様だ。まあ、慎重な人間がグループに一人居るのは悪くはない。必要な時にきちんと発言してくれれば、であるが。私達は、橋の東から西までを歩き切り、更に、西側の橋の袂から金網を潜って外に出て、橋と河の写真を撮った。紅河は、その名の通り鮮やかに紅く濁っていた。河道は直線的で、河原が少ない。川幅もせいぜい3040mで、日本の河川と大差ない。とてもアジアの大河と言えるようなものではなかった。
兎に角、私達は高速を降り、河沿いの道を探した。最近の急速な開発により、道筋は衛星写真で見るものとは全く変わってしまっている。道沿いの高い所(河面から4050m以上上)に対面2車線の新しい舗装道路が走っているのだが、河に降りる道が仲々見つからない。また、見つかっても悪路で、途中で通れなくなるものもある。そこで、衛星写真(Google Map)を使って河原とそこにいけそうな旧道の目星をつけ、GPSで押さえた現在位置との位置関係で、新しく出来て、まだ衛星写真に載っていない道から旧道への入口を探すのである。私達は、やっとの事で高速の橋を見上げる河原に辿り着き、堆積物の採取と礫の観察記載を行った。もう一台の車は、悪路の為に私達の車について来れず、数百m下流で採水をしているとのことだった。
この日は、採水と河川堆積物の試料採取は、1地点だけで終え、その後は下流に向って、河沿いの舗装道路を下った。途中に、河川堆積物の露頭が出てくる。Zheng教授は、いくつかの露頭を見るうちに、河川堆積物の規模が現在の紅河には不釣り合いなほど大きいと言い出した。彼の野性の感が、大きな獲物を見つけた可能性を伝えているようだ。私たちは、道沿いの露頭を片っ端から調べ、礫の種類や円磨度、堆積構造などを調べ始めた。(つづく)(多田)

2011年11月2日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その9)

Lijiangでのつかの間の休日も終わり、調査は終盤に入った。Zheng教授の強い希望で、メコン河、サルウィーン河、紅河上流の採水と河川堆積物の試料採取を一気に行うため、Lijiangを南下し、Daliを経てBaoshanに向った。地図を見てもらえば一目瞭然なのだが、中国西南部には、アジアの大河川であるサルウィーン河、メコン河、揚子江の最上流が、わずか数十kmの間隔で並列して北北東から南南西方向に流れている。更に、揚子江の大屈曲の南東には、紅河の上流域が位置し、低い山一つを越えれば、紅河の集水域に入ってしまうのだ。実際、JinshajiangYalongjiangなどの揚子江上流域は、今から数百万年前には、現在の揚子江の中、下流ではなく、紅河につながっていて、南シナ海に流れ込んでいた、と言う仮説が、多くの研究者達の支持を集めている。しかしながら、揚子江上流域が、元々、紅河とどの部分でどの様につながっており、それが、いつ、どの様にして絶たれたのか、また、四川盆地を経て東シナ海に流れるルートと、いつ、どの様にしてつながったのかはわかっていない。
私達の共通の友人である英国アバディーン大学のPeter Clift教授は、この仮説の信奉者で、この仮説を検証する為に、紅河河口沖合の南シナ海を掘削する計画を提唱し、その実現にむけて、ここ10年近く頑張っているし、中国における構造運動と気候変動の関係解明を一生の研究テーマと公言するZheng教授にとっても、この仮説の検証は、極めて重要な問題なのである。と言う訳で、揚子江に隣接する他の大河川の調査は、単なる採水と河川堆積物の試料採取の為の調査ではなく、揚子江上流域をめぐる河川争奪の歴史を紐解く手掛かりを探す予察的調査でもあったのである。
Lijiangを出た日の夕方にBaoshanに着いたが、Zheng教授は、いつになく慎重にホテルを選ぶ。今まで泊まっていた様な、三ツ星クラスのホテル(上級レベルのビジネスホテルや、やや古くなった老舗のホテル)Nikkiが見つけてもダメ出しをし、街で一番良い五つ星級のホテルにこだわった。おかげで、快適な一夜を過ごす事が出来たのだが、何故、そこまでこだわるのかと聞いたところ、この辺りはミャンマー国境に近い為、麻薬の密輸入に係わる犯罪も多いのだとの事、食事もいつもの様に外に出る事もなく、ホテル内の高級レストランで食べた。
翌日は、高速で更に南西に下り、サルウィーン河、メコン河と2つの河を一気に片付けた。2つの河とも水は揚子江よりやや紅味のある褐色で、濃く濁っている。天気も良く、この日は2地点の採水と河川堆積物の試料採取のみだったので、景色を楽しみながら作業が出来た。そのあと、一気に昆明まで戻るとの事。500km以上ある筈だが。。。とにかく高速を飛ばして一気に戻った。長時間車に乗り続けるのは、本当につらい。車の中で出来る事も限られているし。しかし、高速での移動は、揺れが少なく、ある程度の作業は可能である。今回は、iPad2を持って行ったので、車中で調査日記をつける事にし、今回の調査で、毎日どこに行って何をやったか、フィールドノートや写真を見て思い出しつつ、初めの数日分の日記を綴った。(つづく)(多田)

2011年10月29日土曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その8)

結局、玉龍雪山は見る事ができずに、麓のレストランでヤクの肉などを入れたしゃぶしゃぶ風の鍋料理を食べ、昼すぎにLijiangの中心部にある宿に戻った。午後は自由行動である。Keitaが声をかけてくれたので、私は、KeitaNikkiConnieに付いて旧市街を散策する事にした。こういう所は、Keitaは仲々義理堅い。Yoshiakiは、宿で休んでいるとの事。
宿の前の大通りを渡ると、そこはLijiangの古い街並みを残した旧市街区域である。緩く曲った石畳の狭い道に沿って、黒い瓦屋根で間口二三間ほどの店が建ち並ぶ。道は縦横に走り、古い店並みは続く。1km四方を越す区域が丸ごと昔の街なのである。そこに、道いっぱいにあふれる様に観光客がひしめき合っている。時代劇のセットに入り込んだ様な、妙な感覚である。観光客は8割方が中国人で、以外に若者が多い。海外からの観光客もチラホラ見られる。店は、殆どが観光客相手だが、いわゆるお土産屋は少ない。殆どが専門店で、しかも、結構若者向けが多い。Lijiang周辺は、元々、織物で有名なのだそうで、スカーフや着物の店が特に目立つ。それ以外にも、牛の角などを加工した櫛やブローチなどのアクセサリーショップ、独特の色使いでカラフルな靴屋、カバンの専門店など、若い女性が喜びそうな店が建ち並ぶ。実は、日本でいえば、軽井沢の様な、若者のファッションの流行発信地なのだそうである。案の定、NikkiConnieの眼の色が変わって来た。
Nikkiは、先ず黒いつば広の帽子を買った。彼女の黒のジャケット、パンツによく似合う。実に決まっている。上手く値切って安く買った様で、上機嫌だ。次は、自分用とお土産用のスカーフだが、店をはしごして見て歩く。1件に510分、仲々決めずにはしごして歩く。迷って決めかねているという風でもない。恐らく、種類と価格を確認し、どの種類のスカーフをいくらで買うのが妥当かを絞り込んでいるのでは、と想像する。5軒以上は回っただろうか、多分、気に入った種類とその相場が確定したのだろう。ぼちぼち買い始めた。しかし、1軒でまとめ買いはしない。更に、45軒を回って、やっと買い物を終えた。
一方、Connieは、Nikkiほどはファッション一辺倒ではない。彼女は先ず、本体にひょうたんが付いた縦笛を買った。店でイロイロ試して、一番音色の良い物を選ぶ。小中学校の頃の思い出の品らしい。また、多分家族へのお土産用に、佃煮の様な物を買う。スカーフなどにも興味がある様ではあるが、Nikkiの様に執拗なこだわりはない。大人の落ち着きを感じる。時々、私やKeitaの事を気にかけてくれ、地元特産の食べ物などを買って勧めてくれたりもする。
Keitaは、店の外で手持ち無沙汰にNikkiConniewindow shoppingが終わるのを待つ。文句も言わず、辛抱強く待つ。感情をあまり表に出さない事と、辛抱強さがKeitaの持ち味だ。結局、Shopping は日暮れ近くまで続き、私は、Nikki, Connie, Keita"生態"観察で時間を潰した。(つづく)(多田)

2011年10月26日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その7)

揚子江上流域での採水を終え、Lijiang1日の余裕が出来た。それ迄の日程が強行軍だったので、「1日ゆっくり休みたい」と言うのが本音だった。Keitaはばて気味、頑強な筈のYoshiakiも、流石に始めての海外調査で気疲れしたのか、休みたい様子。しかし、Zheng教授はサービス精神旺盛で、Lijiangの北にある、世界遺産にもなっている玉龍雪山に雪を見に行こうとの事。ConnieNikkiは元気そのもの、行く気満々で、疲れたからゆっくりしたいなどとは言い出せない雰囲気だった。
休養日当日の朝、外は雨がしとしと降り、山は雲に隠れて見えない。雪を見に行くのは中止か、との淡い期待も、山の上は晴れているかもしれないから予定通り行こうとの一言で露と消え、早朝からの出発となった。麓までは車で行ったが、個人の車が入れるのはそこまでで、後は公園内を循環するバスとロープウェイを乗り継いで、標高4500mのロープウェイの終点まで行くとの事。標高3000m足らずの麓でも肌寒いので、展望台のある4640m地点は凍りつくほど寒かろうと、一人80元を払ってダウンコートを借りてくれた。Zheng教授や、Connie, Nikkiは完全に遠足気分で、ロープウェイの順番を待つ間に饅頭や焼きトウモロコシを買って勧めてくれる。ところが、実はYoshiakiと私は、連日のハードスケジュールと辛くて脂っこい四川料理(調査地域は雲南省なのだが、Zheng教授は、中華の中で四川料理が一番美味しいと言う信念を持っており、四川料理のレストランを選ぶ事が多い)の毎日で、お腹の調子がイマイチだったので、食べたかったが、焼きトウモロコシは遠慮した。
ロープウェイの終点に着くと、確かに雨は止んでいたが、雲に隠れて玉龍雪山は見えない。それでも一番上の展望台まで行こうと、若者達は元気いっぱいなのだが、どうした事かZheng教授の元気が無い。「私は、ロープウェイの終点あたりで写真を撮っているから、若者達は、展望台まで行って来なさい。」との事。恐らく、軽い高山病なのだろう。いつもは大丈夫でも、ちょっとした体調の変化で具合が悪くなる事もある。私は、トイレに行ったら、すっきりして絶好調となり、学生達と一番上の展望台を目指した。
ひたすら階段を登るのだが、空気が薄いのですぐ息切れがする。学生達も休み休みだ。休み休みの分、会話は弾む。ふだんは無口のKeitaYoshiakiNikkiConnieと会話を楽しんでいる。記念写真を撮るのが好きな中国の若者気質も、うちとける雰囲気作りに役立っているようだ。私は、日頃のジョギングの成果で、余り息切れもせず、余裕たっぷりで学生達の生態観察を楽しんだ。途中で霧が濃くなり、雪で覆われている筈の頂上はおろか、100m先も見えなくなったが、見晴らしの悪さも、今や彼らには盛り上がる為のネタとなっていた。学生達をリラックスさせ、打ち融けさせると言うZheng教授のもくろみは、見事に成功したと言えよう。苦労して登ったのに結局何も見えなかった事が、逆に忘れられない思い出になるのかもしれない。(つづく)(多田)

2011年10月21日金曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その6)

先にLijiangShangri-laなどの都市が、実は、山間盆地にある、と言う話をしたが、これらの都市に限らず、大屈曲の東方には、標高4000mを越す山々の間の谷を埋める形で、さし渡し数kmから時には数十kmに及ぶ平野が標高3000mを超える高度に多数広がっている。揚子江から4000m級の山々を超えたところに、突然、真っ平らの平野が広がるのである。それはまさしく天空の街であり、特に古都Lijiangは幻想的である。
こうした平野は、殆ど例外なく構造湖(断層運動などで出来た湖)が埋め立てられたものである。この地域には、インド亜大陸のユーラシア大陸への衝突に伴って形成されたと考えられる南北走向の断層が狭い間隔で何本も走っており、それに沿ってV字谷が刻まれている。恐らく、応力場の変化に伴って、横ずれ断層が逆断層に転じ、せき止め湖が形成されたのだろう。この様な、せき止め湖を埋積して形成された平野は、特にDali(大理)からShangri-la(香挌里拉)にかけて多く見られ、その多くは、埋積後に余り侵食を受けていない事から、埋積後、せいぜい数十万年しか経っていないものと思われる。一方、その埋積の開始は、少なくとも中新世後期(5001000万年前)までは遡れる様である。
南中国や東南アジア地域は、ヒマラヤーチベットの隆起に伴う構造運動やモンスーン降水の影響を強く受ける為に、世界で一番侵食、削剥が激しい地域と言われる。従って、これらの地域について、どの位の速度で侵食が進んでいるのか、侵食速度はどう言った要因(特に隆起速度、起伏度、基盤の地質、雨量、植生など)に制御されているのかを知る事は、風化侵食作用を理解する上で、更には、化学風化作用による大気中二酸化炭素の消費過程に、ヒマラヤチベットの隆起やそれに伴うアジアモンスーンの強化がどの程度影響しているかを評価する上でも重要である。その為に、揚子江やメコン河、サルウィーン河の上流域では、近年、風化侵食作用とその制御要因に関する研究が盛んに行われている。そうした研究の多くは、集水域や地形の起伏度を計算するのにGISを使っているが、どうも集砕屑物域(適切な用語が存在しないのでこう書くが、砕屑物粒子を集めて川に供給する領域の事)を計算する際に、上述の埋積湖地形を考えていない様である。
 どう言う事かと言うと、埋積湖を含め、湖はそれより上流の集水域に降った雨は下流に流すが、堆積物は殆どトラップしてしまうのである。湖の場合はその事は明白だが、埋積湖の場合は既に湖は消失してしまっている為、その事は見逃され勝ちとなる。しかし、埋積湖が作る平野に流れ込む比較的小さな川は流入口で扇状地を形成し、また、流入した水の大部分は地下水となり、更に、平野を横切る川は蛇行していて、堆積物の大部分をそこに落としてゆくのである。つまり、降水に関しては、埋積湖やその上流の集水域は、その下流にある揚子江本流の集水域として扱うべきであるが、砕屑粒子に関しては、埋積湖やの上流で侵食され運搬されて来た砕屑物の殆どは埋積湖でトラップされてしまうので、埋積湖より上流の集砕屑物域は、揚子江本流の集砕屑物域からは除外するべきなのである。
上に述べたように、最近、揚子江上流域において、10Beを用いて侵食速度を推定し、それと地形起伏度や雨量、気温、植生などとの関係をしらべて、侵食速度の制御要因を論じた論文が専門誌に出版された。アイデアは良いのだが、結果は今ひとつで、期待された要因との間での相関が低く、明確な結論を得るには至っていなかった。この論文を、以前、Yoshiakiに読ませたら、興味を示していた事を思い出した。Yoshiakiは、卒論のテーマを絞り込むために今回の調査に参加していたが、卒論では、GISを活用した研究を行う事が希望だった。そこで、「GISを用いて埋積湖とその集水域を抽出して、侵食された砕屑物の流出量推定や起伏度評価の際にその影響を考慮して、10Beを使って侵食速度と雨量(河川流出量)や起伏度との関係を議論した先行研究の議論を再評価する」と言うテーマはどうかと水を向けた所、気に入った様子。良い結果が出るかどうか充分な勝算があるわけでは無いが、自分の眼で見た事から何かを感じ取り、そこから様々な疑問やそれを解くためのアイデアを発想するという、自然科学の原点から卒論研究を出発させる事が出来た様に思う。先ずは、良かったよかった。(つづく)(多田)

2011年10月20日木曜日

ペルム紀末大量絶滅期の地層調査(岩手県)

私たちの研究グループが取り組む研究課題のひとつとして、地球史の中で幾度か起きた大量絶滅時代の研究があります。
中でも、近年注目しているのが、今から約2億5千万年前の古生代末に起きたペルム紀末の大量絶滅事変です。この事件では、生物の9割が死滅したとも言われ、文字通り史上最大の大量絶滅です。
この史上最大の大量絶滅事件は、どのようにして起こったのでしょうか?その謎を解く鍵、この時代の海洋の記録を残した地層が日本に残されています。
日本に残る深海地層は、当時の外洋の環境記録を知る手がかりとして重要なのですが、これまでなかなか連続的に保存された地層得られず、不明な点が多くありました。

2011年、10月8日から12日の5日間、私たちは、岩手県北部にみられるこの大量絶滅時の深海底で堆積した地層を調査し、堆積物試料を採取してきました。
参加したのは、多田教授、山本さん、高橋、池田さん、尾崎さんの5名です。


今回の調査の目的は、後期ペルム紀から前期三畳紀にかけての堆積物を完全連続で採取することです。エンジンカッターを使った連続サンプル採取は、今回調査に加わってくださった山本さんがエキスパートです。

 今回は、露頭斜面が急なので、露頭に土台を築き、サンプル採取の足場を作りました。
















土台を作ったら、エンジンカッターで露頭を切断します。切れ込みを入れた部分を地層が連続するように採取していきます。










切断面を作ることによって、露頭を眺めるだけでは分からない細かな堆積構造が見えてきました。これが、大量絶滅期前後の記録なのです。(写真は大量絶滅後の時代に相当)
















今回は、全体で3mの厚さに相当するサンプルを得ることができました。

この堆積物が示す太古の記録を読み解くため、これからサンプルの分析が始まります。
結果が非常に楽しみです。

また、野外調査・試料採取の活動は来年以降も継続予定です。

(高橋)

2011年10月19日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その5)

Panzhihua周辺の調査が終わると、Lijiang, Shangri-laへと移動して、揚子江大屈曲(first bendと呼ばれる)より上流域での採水と河川堆積物採取を行った。大屈曲より上流になると、河道は直線的になって河原は余り発達しなくなり、いわゆるV字谷の地形となる。その為、川沿いには大きな町は存在せず、人口百人に満たない小さな集落が点在するのみである。河床の標高は2000mを超えるが、周辺の山々の標高は4000m以上ある為、谷の深さは2000m前後ある事となる。一方、Lijiang, Shangri-laと言った町は山間の盆地にあり、揚子江とは4000m級の山々で隔てられている。その為、揚子江上流に行くには、山を超えてV字谷の斜面を下る、細くて曲がりくねった道を延々と行かなくてはならない。道は一応舗装されているが、小型車がかろうじて行き違える幅しかない所が多く、大型トラックが来ると道の所々にある退避スペースで待たねばならない。また、急な斜面を切り込んで作ってあるので、しょっちゅう崩れるようで、あちらこちらで修復工事を行っている。我々が行った時も、Shangri-laを出てすぐの所で修復工事を行なっていて、ぬかるんで深い輪だちが刻まれた片側車線を使っての交互通行を行なっていた。
中国では、特に地方に行くと、信号を厳密に守るとか、整然と並んで順番を待つとか、道を譲り合うと言った習慣はあまり無いようである。対向車が通り抜け終わる前でも、空きが出来れば反対側で待っていた車が片側通行の車線に入ってゆくし、信号が赤に変わっても前の車について強引に入ってゆく事がしばしばである。この時も我々の車の前を行くツアー客を乗せたワンボックスワゴンが、前の車について片側通行車線に強引に入って行った。一方、反対側で待っていた大型トラックは、ワゴンが完全に抜け切る前に、片側通行車線に入ろうとして、ワゴンと接触したらしいのである。
ほんの子擦り傷程度だが、トラックがぶつけた形となり、運転手同士の口論が始まった。片側車線をふさいだまま、ツアー客を乗せたままでの口論である。どうも、ワゴンの運転手がトラックの運転手に修理代を請求しているらしい。口論は1時間近くも続いた。その間に通行を待つ車の列は伸び続け、示談が成立してワゴン車が道を開けた頃には、片側で100台を超えていた。この道は、東チベットへと続く唯一の幹線道路である為に、物資を積んだ大型トラックの往き来がかなり多いのである。
運転手二人の口論の際には、野次馬が二人を取り囲み、怒号が飛び交ったが、2人はお構いなしで続けていた。野次馬も半分は口論を楽しんでいるようで、本気で怒っている様子ではなかった。その辺りも、恐らくは阿吽の呼吸があるのだろう。あとで聞いた話では、ワゴンの運転手が、トラックの運転手に、最初2万元(30万円)を要求したらしい。法外な要求である。それが1時間かけて500(7500円程度)にまで下げられて示談成立となったとのこと。フッかける率も40倍とは、さすが中国だ。結局、反対側で並んでいた100台あまりの車が全て通り抜け、我々の車が片側通行を通り抜けたのは、口論開始から1時間半余り経った後だった。
こうした事は、中国の田舎を車で旅する時には、よく起こる事で、驚くには当たらない。怒号を飛ばしていた野次馬達も、半ば口論を楽しんでいたのである。しかし、我々には、この1.5時間のロスは大きかった。この日は、採水の後、Shangri-la見物をして、Lijiangまで戻る予定だったからである。結局、Shangri-laの街を見学することなく、Lijiangまでの長いドライブとなった。(つづく)
(多田)

2011年10月18日火曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その4)

 先にも述べた様に、採水を1日に2地点以上やると夜の濾過作業が追いつかない。そこで、調査2日目と3日目は午前中に採水を行い、午後はPanzhihua周辺地域の高位段丘の調査を行った。東大グループ側は、当初、段丘調査を想定していなかったので、どこに行くかはZheng教授にお任せである。Zheng教授は、野生的感で野外調査を行うタイプの人で、細かな計画は立てないし、状況に応じて予定をどんどん変更する。だから、彼と一緒の調査の時は、調査の目的と計画の大筋だけを決めてあとは彼を信じて任せるだけである。また、彼の意図を素早く理解してこちら側の希望を早めに伝え、予定に組み込んでもらう必要もある。今回も、計画の大筋が決まったのが出発の2週間前で、その時には、段丘調査の話はなかった。
 この地域に新第三紀(2502300万年前)の湖成堆積物がある事は、中国ではよく知られているらしく、その成因が紅河と揚子江間での河川争奪と関係する可能性を指摘した論文が最近出たようである。Zheng教授は、どちらかと言うとそれに否定的な意見を持っている様であったが、兎に角、その考えの妥当性をチェックしたいと言う思いがあって、段丘調査が急遽予定に加わったのでは無いかと推測する。
 高位段丘は、現在の河床から200m以上高い所にあり、地層の固結度も高いことから、第三紀の堆積物と思って良いだろう。また、砂勝ちの砂泥互層で特徴付けられる点も、低位段丘をなす第四紀(?)の湖成堆積物とは異なる。その分布も、当初(Zheng教授が)予想したよりはるかに広く、さし渡しで数百km以上に及ぶ。Zheng教授の目の色も徐々に変わり始めた様だった。実際、Panzhihua東方の揚子江支流沿いの露頭では、現在の河床より約100m高い位置に湖堆積物の基底が露出する。そこでは、花崗岩質の基盤の上に赤茶色の土壌が発達し、それを緩い斜交不整合で覆って湖堆積物が重なる。平坦な土壌面が形成された後、湖が出来て水没するまでの間に、若干の傾動があった事を示唆している。一方、近隣の高位段丘面は湖堆積物の上限を表し、両者の高度差は約250mある事から、湖を埋積した堆積物の厚さは250m以上あると推定される。巨大な湖があった可能性が出て来たのである。
この様に大きな湖は、がけ崩れなどによるせき止め湖とは考えにくい。構造運動に伴って出来た湖ではないだろうか?土壌を低角で切って発達する傾斜不整合の存在もその可能性を示唆する。例えば、現在の紅河流域と揚子江流域の間に出来た分水嶺の隆起に伴って、揚子江の上流域に一時的に湖が形成され、やがてその東縁が決壊して、現在の揚子江へとつながったと考えることはできないだろうか。湖堆積物の基底部に見られる傾斜不整合や、堆積物最下部にスランプ堆積物がみられ、それが傾斜不整合と同じく、写真の左側に向かって層を厚くして行く傾向が見られることも、湖の堆積が構造運動と関係していた事を示唆する。以前から言われているように、元々は、紅河へと流れていた揚子江上流域が現在の揚子江上流域に争奪されるまでの転換期に、一時的に湖が形成されたのかもしれないのである。(つづく)
(多田)

2011年10月12日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その3)

 揚子江プロジェクトでは、10g近い懸濁物を採取して東大と南京大のグループ間で分配し、同一試料について化学組成、鉱物組成、粒度、有機物など、多様な分析を行う予定である。10gの懸濁物の採取と簡単に言うが、それは、実は常識外れな量なのである。それだけの懸濁物を回収する為に、南京大グループは、1地点で100リットル以上もの水を採取するのである。水を満たした25リットルポリタンクを持って、何十段もの階段を上がらねばならない。南京大の女子学生に25kgもあるタンクを持たせる訳にもいかないし、私は腰を痛めているので、10kgの小型タンクを持つのがやっとである。一方、Zheng教授は、50歳の働き盛りで、体格も良いので、25リットルタンクを2つ運ぶ。残りの2つをKeitaYoshiakiが運ぶのである。Keitaは、背は高いが力はそれほどないので、休み休み運び上げる。Yoshiakiは、岩場登りが趣味と言うだけあり、一気に運び上げる。こうして2地点採水すると、車はタンクで一杯となる。その日の採水作業は終了である。
今回の調査では、合計7地点で採水を行い、前回は、10地点以上で採水を行った。それだけの水を運びながら調査を続けるには、中型トラックが必要になる。それは、余り現実的でないので、南京大グループは、吸引ポンプ2台と大型フラスコ4つをホテルの自分達の部屋に持ち込んで、その日のうちに濾過を行う。一晩で200リットルを濾過しなければならないので、作業は夜中の1時をすぎる事もしばしばである。終わるまではシャワーも浴びられないが、二人は率先して熱心に働く。

中国は今、高度経済成長の真っ只中で、下克上の時代である。人一倍働いて結果を出せば、更なるチャンスが得られる。出身地や性別は、それほど関係しない。また、インターネットや携帯の発達で、情報統制が余り効かなくなっているので、特に大学に通う若者達は、海外の情報をかなり良く把握しており、考え方もリベラルである。日本の1960年代を見ているような錯覚に、時々陥る。
また話が脱線したが、南京大グループは、機械とウーマンパワーで、常識を打ち破る量の懸濁物試料を現地で集めるのである。ただし、彼女らは、オイルの飛散を防ぐ機能を持っているとはいえ、オイルポンプを使って強烈に吸引している為、オイルによるコンタミ(試料に微量のオイルが混入して汚染される事)は、まぬがれ得ない。そこで、我々、東大グループは、日本から電動アスピレータを持ち込み、12リットルの河川水試料を濾過する事で、有機物分析用の懸濁物採取する作業を分担した。アスピレータは、水流により陰圧を作り出すので、コンタミの心配は無いが、吸引力は、オイルポンプの数分の一程度である。将来の中国と日本産業の棲み分けの姿を見ているようでもあった。Keitaは、慎重で丁寧だが仕事は遅い。東大グループの作業も、零時を周る事がしばしばだった。(つづく)
(多田)

2011年10月8日土曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その2)

調査2日目。いよいよ本格調査の始まりである。二日目は、Jinshajiang(金沙江)へのYalongjiang[リュウ]江)合流の影響を見る為、合流点から数km下流の揚子江本流と合流点から数百m上流のYalongjiangで採水を行い、3日目の朝には合流点から数km上流のJinshajiangでの採水を行った。これだけ書くと、河に下りて水を取るだけの仕事で、簡単で楽な作業だと思われるかもしれないが、そうは問屋が卸さない。河へ下りる道を探すのが至難の技なのである。
先ず、道から河辺までの間は私有地である事が多いため、道沿いに柵や塀が張り巡らされている事が多く、地図を見ても河に下りる道はほとんど見当たらない。また、揚子江沿いの道は、通常、河面より30m以上高い所を走っており、道から河までの斜面は、草木が生い茂っている。従って、柵が無い所を見つけても、道や階段が無い限り、斜面を登り下りする事は不可能である。
揚子江調査ではNikkiがナビ役なのだが、彼女は、携帯で衛星地図(Google map)を見ながら、採水を希望する地点付近を拡大し、河辺に船が停泊している所を探す。Google mapでは、長さ10m程度の船まで十分に識別できる。揚子江沿いには、しばしば船が繋留されている場所がある。そうした船の多くは、船上レストランか小規模な水文観測船であり、そこへ下りる道や階段が存在する。それを探し出すのである。こうして河辺へ下りる道(多くの場合は階段)を見つけるが、そこに船が停泊していると、Zheng教授の出番である。言葉巧みに(と言っても中国語で話しているので、何を話しているかは分からないのだが、交渉上手である事はわかる)船べりから採水させてもらえるように交渉するのである。(つづく)
(多田)

2011年10月7日金曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その1)

今年(2011年)の9月中旬に二週間余り、学生二人を連れて、中国雲南省の揚子江上流域(金沙江と呼ばれる)に、調査に行って来た。今年から5年間の計画で始めた南京大学との共同研究のための調査である。揚子江の全支流域から水と河川懸濁物、河床堆積物を採取して、化学的、鉱物学的にそれらの特徴付けを行ない、支流別の砕屑物識別基準を確立して、それを揚子江河口沖合いで掘削予定の堆積物コア(過去6000年間に揚子江から流出した堆積物を連続的に記録する)に応用することにより、揚子江のどの支流域で雨が沢山降って砕屑物が流出したか、大規模な洪水が、どの支流域で、どういう頻度で起こったか、それらが時代と共にどう変動したのか、と言った事を明らかにするのが、その研究の主目的ある。
揚子江集水域は南中国の大部分を占め、現代の梅雨前線は集水域の中部~南部に停滞する。過去において夏季モンスーンの強度が変化して梅雨前線の停滞位置が変われば、揚子江の河口に供給される砕屑物の供給源も変化するだろう、という考えがその背景にある。実は、東アジア夏季モンスーンは、数百から数千年スケールで繰り返すグローバルな気候変動に連動して大きく変化して来たらしいことが明らかになりつつあるが、その様式や、グローバルな気候変動と連動する原因はまだ解明されていない。そこで、それらを世界に先駆けて明らかにしようというのがこの研究の最終目的である。
堅苦しい話はこの位にして、とにかく私は、学生二人を連れて、昆明へと旅立った。昆明の空港には、長年の友人であり、共同研究者でもある南京大のZheng Hongbo教授が迎えに来てくれ、南京大グループとすぐに合流した。今回、南京大からは、NikkiとConnieという博士課程1年の明朗で活動的な女子学生2名が参加した。一方、私のグループは、身長193cmとのっぽで痩せ型、気は優しいが引っ込み思案で慎重なKeita(M1)と、イガグリ頭で、背はやや低くガッチリとした体格、口数は少ないが言うべきことははっきり言う、独断即決型のYoshiaki(B4)である。二人とも無口で愛想がないので、NikkiとConnieは物足りなげであったが、兎に角、翌日、四輪駆動ワゴンと中型ワンボックスの2台で、最初の目的地Panzhihuaに向けて出発した。
今回の調査の主目的は、現在の揚子江における侵食、運搬、堆積過程の理解と各支流起源砕屑物粒子の特徴付けだが、数万年から数百万年前の揚子江がどう流れていたかを解明する事がもう一つの目的である。「実は、数百万年から数千万年前の揚子江の集水域は、現在の三峡より下流のみで、四川盆地より上流は紅河の集水域をなしてベトナムに流れていた。それが、東チベットの隆起に伴って、揚子江が次第にその集水域を西に広げ、紅河の集水域を奪っていった(河川争奪と呼ばれる)。」という仮説が、以前から複数の研究者により提唱されて来た。しかし、その根拠は必ずしも明確でなく、いつ、どこで、どの様にして河川争奪が起こったのかに関しても定説はない。そこで、調査の道すがら、揚子江やその支流沿いに見られる古い(時代は未詳である)河川堆積物や湖成堆積物についても、それらを観察、記載して、試料を採取した。
調査の初日は採水はせず、ウォーミングアップも兼ねて、Panzhihuaに行く道すがら、河床から50~60mの高さの段丘をなす古い堆積物を観察した(写真)。堆積物は主に泥岩からなり、平行葉理(地層面のmmスケールでの繰り返し。地層に垂直な断面で見ると、平行な縞模様に見える)が見られた。砂岩層は、細粒でごく薄いものを時々挟むのみである。これらは、湖堆積物の特徴であり、過去の一時期にPanzhihuaの周辺に湖が広がっていたことを示唆する。堆積物の固結度が余り高くない事、Panzhihua東部、揚子江上流から数えて一番目の支流であるYalongjiangとの合流点付近の河べり(河面から1m程度の位置)に同様の堆積物が露出している事から、それほど遠い過去のものでないでない(恐らく第四紀: およそ260万年前以降)と思われる。しかし一方で、調査初日に見た露頭では、地層は南北性の断層によって切られ、東に30度前後傾いていた事から、速めの傾動速度を考えても、~10万年よりは古いと思われる。厳密な測量は行っていないし、断層などに伴う地殻運動も評価出来ていないので、正確な事は言えないが、湖堆積物の厚さが100mを超える事は無いだろう。それほど規模の大きな湖ではなく、取りあえず第四紀における堰き止め湖の堆積物ではないかと考える事とした。(つづく) (多田)

2011年10月1日土曜日

野外実習

私たちの研究グループの活動の特色のひとつは、野外調査を行い、調査・分析対象を直接観察することです。

今週は、多田教授が指導する学部生向けの実習、野外調査実習Ⅰが千葉県清澄山周辺で実施されました。


この実習には高橋も参加したほか、修士院生の烏田君・斎藤君もティーチングアシスタントとして参加しました(下写真)。

・・・お疲れのようですね・・。実習中は二人とも学部生を牽引するのに大活躍だったんです。

4泊5日で実施された実習中、日中は、沢を歩いて、ルートマップや柱状図を作成し、

夜は、フィールドノートの墨入れや作図、調査データに関するまとめと議論が行われました。

学生のみなさんは非常にまじめに取り組んでいました。感心、感心。

実習の最終日には、10月からの環境学実習に使うサンプルを採集しました。

サンプルからどんなデータが得られるか、楽しみですね。


余談ですが、実習中はいろいろな野生生物に出会いました。その中で私たちを悩ませたのは蛭です。足下に沢山付いてくるんですよね。私を含め何人かが刺されてしまいました‥。足首の周りをテープで巻いておくなど、きちんと対策をすると良いようです。

(高橋)

2011年8月14日日曜日

地球環境コロキウム ワークショップ

8月12日に第3回地球環境コロキウムが開催されました.

今回のコロキウムは,ワークショップとして,

担当教員である,多田・茅根・近藤・中村 先生方による研究紹介をして頂きました.


お互いの研究内容や目指すところを知り,今後の相互理解や融合研究の可能性を探るのが狙いです.

地球環境を研究するといっても,対象やタイムスケールは様々です.お互いの研究グループのフィールドを知る知識やキーワードを沢山得ることができたと思います.

ワークショップとその後の懇親会を通して交流を深めました.
 
今後,このような試みが続けば,新しい発想や新知見が得られるかもしれません



あ,コロキウムの様子を写真におさめるの忘れていました・・.反省.

(高橋)

2011年8月2日火曜日

学会参加報告:ICCP2011@Pirth

2011年7月3日ー9日、ICCP: International conference of Carboniferous to Permian が西オーストラリア Perth 西オーストラリア大学で行われました。
この学会では、石炭紀ーペルム紀の時代を研究する研究者・学生が集まり、成果を発表し合いました。中国からの参加者が多かったです。




いくつかトピックを紹介しておきます。

1. 石炭紀ーペルム紀の研究
石炭紀ーペルム紀の時代には氷室期があり、現在に類似した地球環境のシステムがあったと考えられこの時代を研究することは有意義である。
石炭紀ーペルム紀の植物進化は顕著であり、この環境背景も面白そう。特に石炭紀Pensylvania期
カナダ・中国の研究者グループが、詳細な化石年代層序の確立に向けてロシアのセクションで研究が進めている。 カナダ C. Hendersonの講演が時折ユーモアが混じって面白かった。

2.ペルム紀末大量絶滅の研究の新知見
今回の学会参加の主目的です。高橋と池田さんが口頭発表を行いました。
高橋の発表は、深海相のペルム紀ー三畳紀の微量元素の変動がテーマでしが、あとでアメリカの先生に鉛Leadの発音は『れーっど』だと、指摘されました・・・。でも、辞書で発音を調べ直したら「りーっど」だったんですけど・・??