2011年11月27日日曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その12)

今回の調査の旅もいよいよ終わりに近づいてきた。ベトナムとの国境の町「河口」の手前で採水と堆積物試料を採取すれば予定は終了だ。私達は、紅河沿いの町、南沙で一泊したあと、川沿いの舗装道路を、一路「河口」へと向かった。その途中、河の流れが徐々に淀み、河の色が紅から黄褐色を経て深い緑色に変わり、やがて完成間近のダムに出会った事については、既に私個人のブログに書いた通りである。複数の国にまたがって流れる河川にダムを建設する事の問題はここでは述べないが、我々が、高速を降りて紅河沿いに下ってきた舗装道路とその切り割露頭は、どうもダム建設のために、ごく最近、作られたものの様だった。河床からかなり高い位置に道路が作られ、切り割露頭が出来たことによって初めて、大規模な河川堆積物の存在が明らかになったのではないか、と思われる。Zheng教授は、なるべく速やかにこの河川堆積物の調査をすべきと考えているようである。河口の町に着いてそこで1夜を過ごし、昆明へと戻る道々、Zheng教授は、興奮冷めやらぬ様子で、今回の発見の重要性と一刻も早い調査の必要性を熱弁した。
その後のメールでのやり取りの結果、当初12月に予定していた、揚子江下流域の採水、河川堆積物採取の調査を延期して、急遽紅河沿いの河川堆積物の調査を行う事になった。123日から、私とYoshiakiが参加する予定である。(終り)(多田)

2011年11月22日火曜日

犬山調査日記。

高橋です。ご報告遅くなりましたが、11月12−14日の日程で、愛知県と岐阜県の県境を流れる木曽川流域の地質調査を行ってきました。

メンバーは、私と東北大学の鈴木紀毅先生の研究室と広島大学の高橋嘉夫先生と中田亮一さんです。
file://localhost/Users/saccy-t/Dropbox/犬山2011Nov/写真/集合.jpg
木曽川は、美濃帯に属する三畳紀からジュラ紀の深海底で堆積した地層が保存よく残るところとして世界的に有名です。

1日目は、私も研究論文を発表した桃太郎神社近くに位置する前期三畳紀の地層を見学しました。
2日目は、卒論から修士までこの地域の中期三畳紀から中期三畳紀の研究に取り組んできた鈴木研小川君に地質の案内とこれまでの調査成果を紹介してもらいました。詳しく、しっかり研究していてこれで就職してしまうには惜しいくらいです。file://localhost/Users/saccy-t/Dropbox/犬山2011Nov/写真/調査1.jpg

3日目は、河川の水位が引いているときしかなかなか見ることのできない栗栖地域の露頭を歩いて回りました。実は、9月の台風の接近で延期になっていた今回の調査、不幸中の幸いか露頭が洗われていて非常に見やすかったです。

調査中や宿で、調査メンバーのそれぞれの研究・専門性を発揮して議論や交流ができたことも非常に有意義な機会となりました。

初めての野外調査に挑戦した学部生の方には、「いっつも、研究の話ばっかりして・・」と気持ち悪がられましたが・・・  もう少し研究を続けると、いづれ彼女もこっちの仲間入りになりそうな予感がします。

2011年11月13日日曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その11)

雲南省南部を流れる紅河は、標高10002000m前後の比較的緩やかな山々の間を流れるが、河道は直線的で川幅も比較的狭い。V字谷的で、河原もあまり発達せず、どちらかと言えば、侵食場になっている。しかし、その両側の斜面の比較的高い所(恐らく河床から~50mを越える高さ)まで、礫岩を中心とした河川堆積物が、かなり連続的に分布している。礫岩は角礫~亜角礫を主体とし、淘汰が悪く、連続性の悪い泥質砂岩層を時々挟在して居る。河は断層沿いを流れている事から、河道は断層に規定され、断層活動に伴って侵食が進んでいったのではないかと想像される。礫種は多様だが、現在の紅河の河原の礫とは、組成が異なる様である。また、量的には少ないが、角礫の中に非常に良く円磨された花崗岩などの礫が含まれ、その礫種は、現在の紅河には見られないものの様である。
もし、これらの観察が正しければ、紅河は、地質学的過去(恐らくは、レッドリバー断層が活動した3500万年前以降)には、現在よりかなり大きな集水域を持って、流れていたのではないだろうか?Zheng博士も、間違いなくそう思って居るだろう。もしそうなら、我々は、初めて紅河がその過去において河川争奪を受けた直接的証拠を手にした事になる。この事を証明するにはどうしたら良いだろうか?先ずは、現在の紅河の堆積物と河岸斜面の比較的高い所に露出している古い時代の河川堆積物の供給源が異なり、古い堆積物の一部が揚子江上流域から運ばれた物である事を示す事である。それには、両者の礫種を比較して、古い河川堆積物に含まれていて、現在の堆積物には含まれていない礫種を特定し、それが現在の紅河集水域には分布せず、揚子江上流域に分布する物である事を証明すれば良い。石英のESR信号強度と結晶化度を用いて砂の供給源とその時代変化を調べる事も有効だろう。私たちの研究室は、この手法を砂やシルト粒子の供給源推定に適用して、成功を収めている世界で唯一の研究室である。
では、もし、古い河川堆積物の一部が揚子江上流域から供給された事が示せたら、次に何をすれば良いだろうか?次には、その供給が止まった時期(河川争奪が起こった時期)を特定する事が重要だろう。実は、恐らく、これが一番難しい。一般に、河川堆積物には、その年代を推定する手掛かりが余り無い。特に大陸の河川堆積物の場合、火山灰や溶岩流を挟在する事は稀なので、放射性元素を利用した年代測定はできない事が多い。また、海洋堆積物と違って、化石の種類の変化を利用した年代推定(化石層序と呼ばれる)も困難な場合が多い。それゆえ、陸成堆積物においては、多くの場合、地球の磁場の逆転の時代変化パターンの比較に基づく地層年代の推定法(古地磁気層序と呼ばれる)が最も有効な方法である。しかし、それを用いるには、長い期間連続的に堆積した地層を見つけ出す必要がある。そして、それには緻密な地質調査を行う必要がある。
もし、うまく堆積物の時代(特にその上限)が決まったとして、もう一つやるべき重要な事がある。元々、揚子江上流域と何処で繋がっていたのか、それがどの様にして切れたのか、(そして、揚子江下流といつ、どの様にしてつながったのか、)を明らかにすることである。私は、ベトナムとの国境の町、河口に移動中の車内で、iPadを使って衛星写真で紅河の上流域をたどった。元磨高速と紅河との交差点からすこし上流に上がった所で、北東から流入する大きな支流がある。その支流は、支流にしては幅広い河道をもって北東に伸び、昆明の西数十kmまで達している。そして、低い丘を越えると、その向こうは、揚子江の支流で、それは、50kmも経たずに揚子江の3つ目の大屈曲へと注ぐのである。そして、そこには、第三紀のものと思われる湖成堆積物が、現在の河床から300m以上の高さにまで堆積しているのである。
私の頭の中に、一つの仮説が浮かんだ。揚子江の中~上流は、この支流を通じて紅河に流れていたが、第三紀のある時期に、昆明の西で隆起が起こり、揚子江の中~上流域が切り離されたのではないだろうか。そして、揚子江の下流に繋がる河道が新たに切られるまで、一時的に湖が形成されたのではないだろうか?その4で述べた様に、湖成層の基底部に傾斜不整合が見られ、更には、湖堆積物の最下部にスランプが見られることも、湖の形成が傾動運動の開始と拘わっていた事を示唆している。車の中で妄想はどんどん拡大していった。(つづく)(多田)

2011年11月6日日曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その10)

昆明で一泊したので、ドライバー2人はリフレッシュした筈だ。2人は昆明の自宅に戻れたからだ。翌朝、いつもより少し遅めに出発し、一路紅河へと向った。高速が紅河を横切る橋の手前で車を降り、橋の縁の路側帯に沿って橋を渡りながら紅河の写真を撮った。日本では、高速の途中で車を止め、まして人が高速道路に出てその縁を歩く事は、とても認められない法令違反であるが、中国では黙認されるようだ。橋は高さが150m以上あり、橋脚を持つ河としては世界最大(級)の高さを持つのだそうである。おかげで紅河を上から臨む絶景の写真を撮る事が出来た。
Zheng教授は、かなりの写真好きで、良い写真を撮る為なら労を惜しまない。Connie, Nikki, Yoshiakiは私達について車外に出て、写真を撮りつつ橋を徒歩で渡ったが、Keitaは車から出て来ない。多分、もし間違って車にひかれたら、と心配なのだろう。私もどちらかと言えば心配性だが、Keitaは私に輪を掛けた心配性の様だ。まあ、慎重な人間がグループに一人居るのは悪くはない。必要な時にきちんと発言してくれれば、であるが。私達は、橋の東から西までを歩き切り、更に、西側の橋の袂から金網を潜って外に出て、橋と河の写真を撮った。紅河は、その名の通り鮮やかに紅く濁っていた。河道は直線的で、河原が少ない。川幅もせいぜい3040mで、日本の河川と大差ない。とてもアジアの大河と言えるようなものではなかった。
兎に角、私達は高速を降り、河沿いの道を探した。最近の急速な開発により、道筋は衛星写真で見るものとは全く変わってしまっている。道沿いの高い所(河面から4050m以上上)に対面2車線の新しい舗装道路が走っているのだが、河に降りる道が仲々見つからない。また、見つかっても悪路で、途中で通れなくなるものもある。そこで、衛星写真(Google Map)を使って河原とそこにいけそうな旧道の目星をつけ、GPSで押さえた現在位置との位置関係で、新しく出来て、まだ衛星写真に載っていない道から旧道への入口を探すのである。私達は、やっとの事で高速の橋を見上げる河原に辿り着き、堆積物の採取と礫の観察記載を行った。もう一台の車は、悪路の為に私達の車について来れず、数百m下流で採水をしているとのことだった。
この日は、採水と河川堆積物の試料採取は、1地点だけで終え、その後は下流に向って、河沿いの舗装道路を下った。途中に、河川堆積物の露頭が出てくる。Zheng教授は、いくつかの露頭を見るうちに、河川堆積物の規模が現在の紅河には不釣り合いなほど大きいと言い出した。彼の野性の感が、大きな獲物を見つけた可能性を伝えているようだ。私たちは、道沿いの露頭を片っ端から調べ、礫の種類や円磨度、堆積構造などを調べ始めた。(つづく)(多田)

2011年11月2日水曜日

雲南省長江上流域調査の旅 (その9)

Lijiangでのつかの間の休日も終わり、調査は終盤に入った。Zheng教授の強い希望で、メコン河、サルウィーン河、紅河上流の採水と河川堆積物の試料採取を一気に行うため、Lijiangを南下し、Daliを経てBaoshanに向った。地図を見てもらえば一目瞭然なのだが、中国西南部には、アジアの大河川であるサルウィーン河、メコン河、揚子江の最上流が、わずか数十kmの間隔で並列して北北東から南南西方向に流れている。更に、揚子江の大屈曲の南東には、紅河の上流域が位置し、低い山一つを越えれば、紅河の集水域に入ってしまうのだ。実際、JinshajiangYalongjiangなどの揚子江上流域は、今から数百万年前には、現在の揚子江の中、下流ではなく、紅河につながっていて、南シナ海に流れ込んでいた、と言う仮説が、多くの研究者達の支持を集めている。しかしながら、揚子江上流域が、元々、紅河とどの部分でどの様につながっており、それが、いつ、どの様にして絶たれたのか、また、四川盆地を経て東シナ海に流れるルートと、いつ、どの様にしてつながったのかはわかっていない。
私達の共通の友人である英国アバディーン大学のPeter Clift教授は、この仮説の信奉者で、この仮説を検証する為に、紅河河口沖合の南シナ海を掘削する計画を提唱し、その実現にむけて、ここ10年近く頑張っているし、中国における構造運動と気候変動の関係解明を一生の研究テーマと公言するZheng教授にとっても、この仮説の検証は、極めて重要な問題なのである。と言う訳で、揚子江に隣接する他の大河川の調査は、単なる採水と河川堆積物の試料採取の為の調査ではなく、揚子江上流域をめぐる河川争奪の歴史を紐解く手掛かりを探す予察的調査でもあったのである。
Lijiangを出た日の夕方にBaoshanに着いたが、Zheng教授は、いつになく慎重にホテルを選ぶ。今まで泊まっていた様な、三ツ星クラスのホテル(上級レベルのビジネスホテルや、やや古くなった老舗のホテル)Nikkiが見つけてもダメ出しをし、街で一番良い五つ星級のホテルにこだわった。おかげで、快適な一夜を過ごす事が出来たのだが、何故、そこまでこだわるのかと聞いたところ、この辺りはミャンマー国境に近い為、麻薬の密輸入に係わる犯罪も多いのだとの事、食事もいつもの様に外に出る事もなく、ホテル内の高級レストランで食べた。
翌日は、高速で更に南西に下り、サルウィーン河、メコン河と2つの河を一気に片付けた。2つの河とも水は揚子江よりやや紅味のある褐色で、濃く濁っている。天気も良く、この日は2地点の採水と河川堆積物の試料採取のみだったので、景色を楽しみながら作業が出来た。そのあと、一気に昆明まで戻るとの事。500km以上ある筈だが。。。とにかく高速を飛ばして一気に戻った。長時間車に乗り続けるのは、本当につらい。車の中で出来る事も限られているし。しかし、高速での移動は、揺れが少なく、ある程度の作業は可能である。今回は、iPad2を持って行ったので、車中で調査日記をつける事にし、今回の調査で、毎日どこに行って何をやったか、フィールドノートや写真を見て思い出しつつ、初めの数日分の日記を綴った。(つづく)(多田)